思考の混線

2016年4月29日の日を記憶するために。電子の壁に向かってひとり言。

エヴァンゲリオンの縦軸 – シンジの成長と選択

アスカ⇔綾波の対立を物語の横軸とすると、縦軸はシンジの成長だ。以下でそのメタファーを解説する。

 

1.セカンドインパクトとは何か

物語の発端であるセカンドインパクト。なぜセカンドから始まるのか。それは「第2次性徴」のメタファーだからだ。とすると、「第3次性徴」という言葉はないが、サードインパクトは「大人としての成熟」を意味することが判る。

つまりエヴァの世界は、思春期に少年から大人に変われていないシンジの象徴であり、一人前の大人になることが物語の縦軸だ。

 

2.それぞれが表すモノ

主人公であるシンジは、内包された視聴者であるオタクだ。内向的・非モテ・社会への恐れなどの要素を持っていることからそうと判る。宮崎事件以来のオタク差別が強く、カースト底辺に押し込められていた時代だ。

 

では、シンジを襲う使徒とは何なのか。「もともとは同根であるが在り方が異なっている存在」と語られる。それを現実に照らし合わせると、「同じ人間として生まれたが、来歴や考え方が異なっている人」、要するに他人ということになる。自分と考えの違う人があふれかえっているのが社会の常だ。

 

人によって得意・不得意はあろうが、社会人はそのような人たちとも接しなければならない。しかしコミュ障のオタクは家族や仲間内のコミュニケーションばかりで、異なる考えを拒絶する意識が強い。それがA.T.フィールドだ。「誰もが持っている心の壁」というカヲルの説明はこういうことだ。

 

では使徒と戦うエヴァンゲリオンはどうか。エヴァには母親の魂が入っている。だからエヴァが象徴するのは母親そのものだ。傍証としてエントリープラグが子宮をオマージュしていることを挙げておく。

では父親はというと、そのままではあるが碇ゲンドウである。ネルフは家であり経済力の象徴だ。

 

以上から見えるシンジ=オタクの姿は、両親に守られながら社会を拒絶して暮らす引きこもりという情けない姿となる。そして萌えアニメ(=綾波レイ)にプラトニックな熱を向けつつ現実の女性(=惣流アスカ)を恐れている。

それに対して「いつまでも実家に引きこもっている訳にはいかないので社会復帰せよ」というのが庵野監督の親心。冒頭で記した通り、社会に出られる成熟した大人になることがサードインパクトだ。

 

3.サードインパクトでの選択

前項で述べた「アニメを捨てよ、街へ出よ」のうち「アニメを捨てよ」についてはすでに書いたので、以下では「街へ出よ」について記す。

ネルフとゼーレはそれぞれサードインパクトを起こそうとしているが、目指す先は異なる。

ネルフによる計画では人類全員の精神をひとつにする。これを現実社会に当てはめると、集団主義的・体育会的・軍隊的な人物像となる。全員が坊主頭にして一致団結したり、隠し事をせず何でも話すように強要したり、会社に忠誠を誓ったり。「日本的」という言葉で表されることもある。

ゼーレによる計画はその逆で、個人の能力を強化するものだ。これは、個人主義的・欧米的・合理的な人物像を意味する。他者よりも自分を優先して利益獲得を図る、そのような性向は多かれ少なかれ誰もが持っているだろう。

シンジはそのどちらになるのか選択を迫られ、中間にある第3の道を選ぶ。他者との関わりの中で適切な距離を測りながら互いに尊重しあうという、拍子抜けするほど真っ当なものだ。

 

4.結末

最終回では無事に選択を終えたシンジに、周囲の人たちからおめでとうと拍手が贈られる。これは思春期からの卒業式であり成人式だ。つまり「引きこもりが社会人への一歩を歩み始める」という、『NHKにようこそ』と同じハッピーエンドなのだ。

オチとして、『あの花』では最後に「概ね幸せに暮らしました。めでたしめでたし」となるが、エヴァでは「女性から『気持ち悪い。』などと言われまくるいばらの道です」というつらい現実が示される。後者の方が誠実だと思うが、どうか。

 

最後に1点を書き添えて本稿を閉じる。

渚カヲルは「オタクに理解があり考えを通わせられるが、同時に社会の中でも上手くやっている友人」という人物像、当時の庵野監督に対する岡田斗司夫である。