思考の混線

2016年4月29日の日を記憶するために。電子の壁に向かってひとり言。

現代アニメとまどマギの相似 – 無限の自己救済

本投稿では「エヴァンゲリオン」以降のアニメを「魔法少女まどかマギカ」とリンクさせて語ってみる。断っておくが、以下に述べることがまどマギのテーマだとは思っていない。それでも重なる部分はあると思う。

 

ポストエヴァの停滞

エヴァが突きつけた命題は、前に書いたように「アニメを捨てよ、街へ出よ」だった。それに対するアンチテーゼ/フォローの作品も作られたが、散発的なものにとどまった。

オタク達の大勢としての回答は「無視すること」だった。これ以降、アニメ業界は一般社会から目を背けて「萌え」の粗製乱造に腰を据える。

萌えの需要が供給を再生産する「鶏と卵」。この繰り返しこそが、エヴァ以降のアニメの本質だ。

 

アニメ20年の変遷

無数のアニメ作品が地層のように積み重なることによって、それなりに変化も起きた。

目に見えるところでは技術の進歩により映像が向上し、それに伴い表現性や美術的価値の高い作品も生まれた。

また、オタク文化が徐々に力をつけ、社会的地位の向上が進んだ。オタク差別は薄くなり、一般社会や企業がオタク文化に入り込んできた。

 

まどマギとの相似

ここでようやくまどマギが出てくる。

まどマギでは、ほむらが幾度も時間ループを繰り返すことによって、まどかが徐々に力を増した。それに対して上で書いたように、アニメ業界萌えアニメの制作を繰り返すことによって力を増した

うん、相似してる相似してる(言い聞かせるように)。

 

まどかは自身の力を使って円環の理となった。魔法少女の1人であるまどかが、過去・現在・未来のすべての魔法少女を救ったのだ。

とすると、今のアニメ業界が救おうとしているのは、過去・現在・未来のすべてのアニメ作品とオタク業界である。

差別され軽蔑された過去のオタクには慰めと名誉回復。現在のアニメ業界にはさらなる地位向上を。そして未来のオタクには、日本の文化と経済がゆるす限り将来にわたって萌え作品を供給することが約束された。

 

これは萌えを認める人々にとっては安住の地、終の棲家を得たのと同然だ。しかし私のような萌えを好まない立場からすると、薬物依存のスパイラルでしかない。未来に向けて現状維持が約束された今、私はアニメの将来に対して全く期待を持てなくなった。

私にできるのは、エヴァウテナlain千年女優、といった過去の作品をリピートしながら、円環の理からはじき出された少数の作品を待つだけなのだ。

この結論は我ながらショックだし悲しい。

 

 

具体的には『迷い家』を切った。