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思考の混線

2016年4月29日の日を記憶するために。電子の壁に向かってひとり言。

エヴァンゲリオンの横軸 – リベラル左翼の表現

本稿ではテレビ版と旧劇場版について記す。

1.現実と空想の2項対立

庵野監督は根っからのリベラル左翼であり、フェミニストである。それはエヴァ以前の作品を見れば瞭然だ。『トップをねらえ!』に『ふしぎの海のナディア』と、自由で強く、自立した女性像が描かれている。というより、それしか描いていないと言っても過言ではない。当然、エヴァの思想性もそこにある。

それがストレートに表れているのが惣流アスカだ。ヨーロッパ的リベラリズムを身に着けた彼女は、周りの大人や男子たちに負けずに自らの考えをまくしたてる。彼女は庵野監督の理想とする強い女性の象徴であり、同時に現実の女性の象徴である。

その反対に位置するのが綾波レイである。彼女を特徴づけるのは弱さと従属。それは前項で述べた「萌え」要素の本質でもある。つまり綾波萌えアニメやヒロイン全体の象徴と言える。無数のスペアのある身体など、1クールごとに入れ替わる「俺の嫁」の姿そのものだ。

エヴァンゲリオンとは、現実の女性=惣流アスカ」と「空想の萌えヒロイン=綾波レイ」の2項対立なのだ。シンジ=男性オタクは、現実と空想の選択を迫られる。

 

2.シンジと2人の関わり方

シンジは力の弱く内気な少年として描かれるが、綾波に対しては優位に立つ場面がたびたび見られる。例えば初登場では、シンジは半ば流されるままに言った「エヴァに乗るよ」、その一言だけで綾波の命を救っている。また「あなたは死なないわ、私が守るもの」というセリフは、使徒の攻撃を受け止めるという役割を考えると、献身という言葉が妥当だ。その後もゲンドウの言いなりになるなど、男権への従順さが強調される。このように、綾波には前項で述べた「萌え」に必須の要素が意識的に集められている。

一方、アスカはシンジを露骨に見下してないがしろに扱い、加持に熱を上げている。放送当時のオタク差別や最近よく耳にする女性の上昇婚志向を考えるに、アスカの言動は現実の女性と照らし合わせて妥当なのではないか。

 

3.サードインパクトでの選択

終盤のサードインパクトで選択されるのは、アスカか綾波か ― 現実か空想か、ではない。サードインパクトの命じるところは「萌えを捨てよ、街へ出よ」なので(この辺りの意味については次項で書こうと思う)、「綾波を捨てる」ことはすでに決まっている。現実に即して書くと「大人として社会に出るために、萌えやアニメの趣味を捨てる」ということだ。

今では大人がアニメを趣味にすることは比較的簡単に受け入れられている。しかしそれでも、年配の方やオタクと縁遠い人からはいまだに差別は根強い。宮崎事件の影響が強い放送当時はなおさらだったろう。「街へ出る」ために「萌えを捨てる」ことは必須だった。

 

本項で記す選択は「アスカ(=現実の女性)とどう関わるか」である。

サードインパクトに対して、シンジはネルフ・ゼーレ両方の人類補完計画を拒み、他者と関わりあいながら生きる道を選んだ。だから、アスカに対しても碇シンジとしてかかわっていかなければならない。

旧劇場版の最後でシンジはアスカの首を絞めるという行動をとり、アスカは「気持ち悪い」の言葉で応じた。このシンジの行動はちょうど、コミュ障のオタクがカースト上位の女子に向かって精いっぱい話しかけるのと一緒だ。それは簡単に「キモい。」の一言で片づけられるだろう。

だからといって、1人前の社会人になるためには、居心地の良い萌えアニメの世界に逃げてはダメだ。何度「キモい」と言われようとも現実の女性と向き合い、コミュ障を克服しなければならない。

 

エヴァは、そして庵野監督は、そうせよと命じているのだ。エヴァファンを名乗るためには、アニメを捨てなければならないし、女性は強くあらねばならず、男性は自らが強くあるだけでなく強い女性を応援しなければならない。残念ながら、昨今のオタクからその気概は感じられない。