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思考の混線

2016年4月29日の日を記憶するために。電子の壁に向かってひとり言。

ウテナ決闘曲の解釈 ― 肉体の中の古生代、スピラ・ミラビリス劇場

アニメ

『肉体の中の古生代』は第2話、西園寺との再戦で使われた。

『スピラ・ミラビリス劇場』は第5話、ミッキーとの初戦のBGMだ。

この2曲はもともと、演劇実験室万有引力の舞台『電球式アンモナイト』のために作られた。古生物、特にアンモナイトをモチーフにしている。アンモナイト愛好家の立場から、歌詞の意味するところを解釈してみる。

 

肉体の中の古生代

"カンブリア オルドビス シルル デボン 石炭 二畳 三畳 ジュラ 白亜" これらの単語は時代の名前だ。カンブリア爆発から大量絶滅が起こった二畳紀までが古生代三畳紀から白亜紀までが中生代だ。

"ヒカゲノカズラ ~ ウミカゲロウ"は実在する生物の名前らしいとネットで見た。個人的には半分以上知らないし、検索しても出てこないものもあるけれど。ちなみにウミテンシは sea angel でクリオネの英名だ。

 

では、肝心の「肉体の中の古生代」とはどういう意味なのだろうか。解釈したい。

僕たちヒトには(今のところ)必ず両親がいて、親の親の親の親の……と果てしなく遡るとネズミのような姿の祖先にたどり着くし、さらに進むと爬虫類・魚・刺胞動物・アメーバそして細菌までたどり着く。ヒトの体を形成しているDNAや様々な性質は長い歴史の積み重ねの結果だ。哺乳類が誕生するより前の遥かな祖先が見舞われた偶然や際どい生死の分かれ目が、遺伝情報や生態系のバランスを通じて確実かつ直接的に現代のヒトに影響を与えている。これが「肉体の中の古生代」の意味するところだ。"生き続ける 死に続ける"もそのように解釈できる。

そしてイメージは生命の母である海に向かいクライマックスを迎える。締めの"アンモナイト"はよく判らない。アンモナイト古生代からいるが、一番繁栄したのは中生代だ。

 

スピラ・ミラビリス劇場

spira mirabbilis、英語にすると marvelous spiral 、対数螺旋の美辞的な呼び名だ。数学の教科書の表紙裏あたりで、オウムガイの殻のカーブを見たことがあるだろう。この曲は対数螺旋の代表格であるアンモナイトがモチーフだ。さらに具体的には、その世代交代と進化だ。

あらゆる生き物はできるだけ多くの個体を後世に伝えようとする。そのために、多くの種は子をつくる。親は自らの世代より多い数の子を産み、子供世代のうち環境に適して生き残った・異性に選ばれた個体が子をつくる。やがて親は死を迎える。これを気の遠くなるほど長い期間・回数にわたって繰り返すことで、時には形質を変えながら遺伝子を存続してきた。

この営みを微視的に見ると、個体の死と誕生(再生の果てしない繰り返しだ。そしてより巨視的に、種をひとつの生き物に喩えると、それは「不死の構造」であり「不死の運動」と呼べる。そしてもうひとつの重要な要素に、「変化し続ける」ことがある。ある1人のヒトが父とも母とも全く同じ人間ではないように、あらゆる生き物は世代を経るごとに変化を避けられない。

 

さて、ニッポニテス・ミラビリスというアンモナイトがいる。U字型の管を繰り返したような奇怪な形をしている。このニッポニテスの遥か祖先は、よくある渦巻き形のアンモナイトだった。それがユーボストリコセラスという螺旋階段状のアンモナイトに進化する。ユーボストリコセラスは軟体部が下を向くなどのマイナーチェンジをしながら種を存続し、やがてその一部がニッポニテスという奇奇怪怪な形状に至る。"渦巻 螺旋 変化し続けるスピラ・ミラビリス"という一文とよく符合するように思う。

余談だが、科博はニッポばかり置きすぎだ。もっとプゾシアの優美さとかダメシテスのダメっぽさとかテトラのエロさとかを前面に出してほしい。

ウテナ世界の決闘の勝ち方

アニメ

 

ことさら新しい話でも珍しい話でもないのだが、決闘に絞った内容を記しておく。

 

「強さ」と「気高さ」

決闘におけるバロメータは、冒頭のおとぎ話で繰り返し語られる「強さ」と「気高さ」の2つだ。この合計値が高い方が決闘の勝者となる。

ここでいう「強さ」とは、単に肉体的な強さではない。欲望や野望、権力といったものも含まれる。決闘においては剣技で表される。生徒会メンバーが剣道やフェンシングの腕を鍛えているのはそのためだ。

一方、「気高さ」とは、純粋さや理性、理想や善性、そういった類のものだ。胸から取り出される剣がそれを象徴する。ディオスの剣が力を発揮するのはこれが理由だ。黒薔薇編の薫梢戦で、幹の胸から出した剣に対して「何て剣の力だ……!」というウテナのセリフがある。剣自体の力を認める発言だ。

 

「王子さま」と「お姫さま」

ということは、「強さ」と「気高さ」の両方を備えた人物が最強ということになる。そのような人に与えられる称号こそが「王子さま」であり、かつてのディオスがそれにあたる。ディオスの「気高さ」はアンシーの中に封印されていて、残った「強さ」だけの存在が鳳暁生だ。

反対に、「強さ」も「気高さ」も最低な人間は「お姫さま」と呼ばれる。「お姫さま」は自らの意思を持たず、「王子さま」から守られるばかりの存在だ。当然、決闘において最弱に位置する。

 

ウテナの強さと弱さ

ウテナの「強さ」と「気高さ」はどうか。「強さ」は決して高くない。欲望や権力に執着する質ではないし、運動神経が良いとはいえ全国レベルの剣技を持つ生徒会メンバーよりははるかに劣るだろう。

ウテナが決闘で勝ち続けるのは、ひとえに「気高さ」の高さゆえだ。おとぎ話や過去話で語られる通り、永遠なるもの、つまり「王子さま」だったころのディオスに会って感化されたことがその源泉だ。決闘中にディオスが降臨できるのも、ウテナの「気高さ」がディオスの相似形だからだ。

 

ウテナ攻略法

であるから、ウテナに勝つためには「気高さ」を挫くのが最善だ。その弱点は他ならぬディオスにある。「気高さ」を与えてくれた憧れの存在なので、ウテナはディオスに対してのみ「お姫さま」として振る舞ってしまうのだ。前述の通り「お姫さま」は絶対に勝ち目がない。

この戦略をとったのが、生徒会編における桐生冬芽であり、世界の果て編における鳳暁生だった。33話の例のシーンは、ウテナが暁生の策略によって「お姫さま」になったことを象徴している。

 

 

物語の進展

最後に付言として、物語の進展について触れる。

1点目として、同じような相手とばかり戦っているように見えるが、敵の強さは上がっている。生徒会編では胸から取り出した剣を使わず物理だけで戦っている。黒薔薇編では胸の剣を使うが、使用者は剣技の未熟な者たちだ。そして世界の果て編でようやく、胸の剣と剣技のそろった相手と戦う。

つまり、

「強さ」のみ →「気高さ」のみ →「強さ」と「気高さ」

という順にステップアップしている。

 

2点目として、ウテナの使う剣が途中で変わる。序盤はアンシーに封印されたディオスの「気高さ」の剣を使っていた。剣を取り出すときのセリフ「私に眠るディオスの力よ、お願い、応えて」はそれをかなりストレートに表現している。

それが後半になると、ウテナ自らの胸の剣を使って決闘している。ウテナの「気高さ」がディオスを超えたからだと読み解ける。ウテナはそもそもアンシーのために戦っているので、2人の絆が本物の親友と呼べるほどに強固になったことを表している。

現代アニメとまどマギの相似 – 無限の自己救済

アニメ

本投稿では「エヴァンゲリオン」以降のアニメを「魔法少女まどかマギカ」とリンクさせて語ってみる。断っておくが、以下に述べることがまどマギのテーマだとは思っていない。それでも重なる部分はあると思う。

 

ポストエヴァの停滞

エヴァが突きつけた命題は、前に書いたように「アニメを捨てよ、街へ出よ」だった。それに対するアンチテーゼ/フォローの作品も作られたが、散発的なものにとどまった。

オタク達の大勢としての回答は「無視すること」だった。これ以降、アニメ業界は一般社会から目を背けて「萌え」の粗製乱造に腰を据える。

萌えの需要が供給を再生産する「鶏と卵」。この繰り返しこそが、エヴァ以降のアニメの本質だ。

 

アニメ20年の変遷

無数のアニメ作品が地層のように積み重なることによって、それなりに変化も起きた。

目に見えるところでは技術の進歩により映像が向上し、それに伴い表現性や美術的価値の高い作品も生まれた。

また、オタク文化が徐々に力をつけ、社会的地位の向上が進んだ。オタク差別は薄くなり、一般社会や企業がオタク文化に入り込んできた。

 

まどマギとの相似

ここでようやくまどマギが出てくる。

まどマギでは、ほむらが幾度も時間ループを繰り返すことによって、まどかが徐々に力を増した。それに対して上で書いたように、アニメ業界萌えアニメの制作を繰り返すことによって力を増した

うん、相似してる相似してる(言い聞かせるように)。

 

まどかは自身の力を使って円環の理となった。魔法少女の1人であるまどかが、過去・現在・未来のすべての魔法少女を救ったのだ。

とすると、今のアニメ業界が救おうとしているのは、過去・現在・未来のすべてのアニメ作品とオタク業界である。

差別され軽蔑された過去のオタクには慰めと名誉回復。現在のアニメ業界にはさらなる地位向上を。そして未来のオタクには、日本の文化と経済がゆるす限り将来にわたって萌え作品を供給することが約束された。

 

これは萌えを認める人々にとっては安住の地、終の棲家を得たのと同然だ。しかし私のような萌えを好まない立場からすると、薬物依存のスパイラルでしかない。未来に向けて現状維持が約束された今、私はアニメの将来に対して全く期待を持てなくなった。

私にできるのは、エヴァウテナlain千年女優、といった過去の作品をリピートしながら、円環の理からはじき出された少数の作品を待つだけなのだ。

この結論は我ながらショックだし悲しい。

 

 

具体的には『迷い家』を切った。

新劇場版エヴァの解釈 - 庵野監督の懺悔

アニメ

エヴァの失敗

前項までに書いたメッセージはどのようにオタクに受容され、影響を与えたのだろうか。

結論を述べると、大勢として受容されることはほぼなかった。それどころか、庵野の望みとはまったく逆の方向に進んでいった。「捨てよ」と命じられたはずの綾波レイは、唯一無二のイコンとして戴かれた。エヴァをきっかけにアニメ業界は急激に「萌え」に傾き、綾波的要素を持つ美少女キャラが粗製乱造された。この状態は20年経った今でも基本的に維持されている。

これはリベラル左翼の庵野にとって思想的頽廃に他ならない。思想性のみに着目すると、エヴァは完膚なきまでに失敗だった。作らない方がマシだったとさえ言える。

 

この失敗こそが、新劇場版におけるサードインパクトなのである。萌え一色に染め上げられたオタク・アニメ業界が、破壊された地球に喩えられる。庵野にとって今のアニメ業界はこれほどまでに破滅的だということだ。

とすると、そのきっかけを作ったシンジ=庵野ということになり、新劇場版で描かれるのは庵野の失敗と懺悔であることが判る。長いあいだ月で眠っていたことは、アニメ業界を離れていた経歴と符合する。

 

 新劇場版Qのメタファー

そんなシンジ=庵野が十数年ぶりに地球=アニメ業界に復帰するのが「Q」だ。

シンジが目を覚ますのは、かつての仲間が集うヴンダーだった。シンジはサードインパクトのきっかけを作った咎から白眼視される。ここで、サードインパクトは保守的な萌え文化を意味するのだから、それに反対するヴンダーはリベラル左翼の思想家ということになる。彼らはもともと庵野と思想を同じくする人たちであり、アニメ業界の保守化のきっかけとして庵野を恨む理由も十分にある。要するに、庵野エヴァをきっかけにのけ者にされたのだ。

 

シンジは彼らからの別離を選びネルフに戻る。シンジの根拠地であるネルフは、庵野の根拠地、すなわちかつてのガイナックスであり今のカラーである。

到着早々、ゲンドウから「エヴァに乗れ」と告げられるシンジ。きっと、アニメ業界に戻ったばかりの庵野も同じように、利害関係者から「エヴァを作れ」を再三迫られたことだろう。シンジがエヴァに乗ることは、庵野が新劇場版を作ることのメタファーだ。

シンジはジレンマに悩まされながらも、最終的にエヴァに乗る。現に新劇場版が公開されているのだから当然ではあるが。

 

自己言及としてのフォースインパク

先に公開された新劇場版「序・破」は、もともとの知名度に少年の成長という解りやすい物語、素晴らしい映像表現が相まって社会現象になった。普段アニメに触れることのない中高生や中年などの一般層にも受け入れられて、綾波をイコンとする萌え文化のすそ野を広げた。

これがすなわちフォースインパクトだ。新劇場版のブームも、リベラル左翼としての庵野にとっては破壊を広げるにすぎない。

 

フォースインパクトはカヲルの死とヴンダーの努力によって一応の終息を見る。現実においても、あまりに理解をはねのける「Q」の公開以降、エヴァブームはかなり沈静化したように思える。フォースインパクトの終息は、沈静化した現状の予言と言えるのではないか。

 

最後のシーンで、シンジはエヴァを降りて大地を歩く。上記を踏まえると、エヴァをやめて次に移ることを意味すると考えられる。次回作となるシンエヴァで描かれるのは、ポストエヴァ庵野監督でありアニメ業界の展望だ。どのような未来を見せてくれるのか、大いに期待している。

 

完全なる蛇足

終わりになるが、シンエヴァで予測できるシナリオを列挙してみる。

・信頼できる仲間たちと質の高いアニメを作っていく。

 → シンジとアスカだけが生き残り、小さな土地を耕して生きていくEND

・アニメに見切りをつけ、実写映画や演劇など幅広く携わっていく。

 → 星間移動しながら新天地を探すEND

・引退して後進に道を譲る

 → シンジと綾波の間に子供ができるEND

エヴァンゲリオンの縦軸 – シンジの成長と選択

アニメ

アスカ⇔綾波の対立を物語の横軸とすると、縦軸はシンジの成長だ。以下でそのメタファーを解説する。

 

1.セカンドインパクトとは何か

物語の発端であるセカンドインパクト。なぜセカンドから始まるのか。それは「第2次性徴」のメタファーだからだ。とすると、「第3次性徴」という言葉はないが、サードインパクトは「大人としての成熟」を意味することが判る。

つまりエヴァの世界は、思春期に少年から大人に変われていないシンジの象徴であり、一人前の大人になることが物語の縦軸だ。

 

2.それぞれが表すモノ

主人公であるシンジは、内包された視聴者であるオタクだ。内向的・非モテ・社会への恐れなどの要素を持っていることからそうと判る。宮崎事件以来のオタク差別が強く、カースト底辺に押し込められていた時代だ。

 

では、シンジを襲う使徒とは何なのか。「もともとは同根であるが在り方が異なっている存在」と語られる。それを現実に照らし合わせると、「同じ人間として生まれたが、来歴や考え方が異なっている人」、要するに他人ということになる。自分と考えの違う人があふれかえっているのが社会の常だ。

 

人によって得意・不得意はあろうが、社会人はそのような人たちとも接しなければならない。しかしコミュ障のオタクは家族や仲間内のコミュニケーションばかりで、異なる考えを拒絶する意識が強い。それがA.T.フィールドだ。「誰もが持っている心の壁」というカヲルの説明はこういうことだ。

 

では使徒と戦うエヴァンゲリオンはどうか。エヴァには母親の魂が入っている。だからエヴァが象徴するのは母親そのものだ。傍証としてエントリープラグが子宮をオマージュしていることを挙げておく。

では父親はというと、そのままではあるが碇ゲンドウである。ネルフは家であり経済力の象徴だ。

 

以上から見えるシンジ=オタクの姿は、両親に守られながら社会を拒絶して暮らす引きこもりという情けない姿となる。そして萌えアニメ(=綾波レイ)にプラトニックな熱を向けつつ現実の女性(=惣流アスカ)を恐れている。

それに対して「いつまでも実家に引きこもっている訳にはいかないので社会復帰せよ」というのが庵野監督の親心。冒頭で記した通り、社会に出られる成熟した大人になることがサードインパクトだ。

 

3.サードインパクトでの選択

前項で述べた「アニメを捨てよ、街へ出よ」のうち「アニメを捨てよ」についてはすでに書いたので、以下では「街へ出よ」について記す。

ネルフとゼーレはそれぞれサードインパクトを起こそうとしているが、目指す先は異なる。

ネルフによる計画では人類全員の精神をひとつにする。これを現実社会に当てはめると、集団主義的・体育会的・軍隊的な人物像となる。全員が坊主頭にして一致団結したり、隠し事をせず何でも話すように強要したり、会社に忠誠を誓ったり。「日本的」という言葉で表されることもある。

ゼーレによる計画はその逆で、個人の能力を強化するものだ。これは、個人主義的・欧米的・合理的な人物像を意味する。他者よりも自分を優先して利益獲得を図る、そのような性向は多かれ少なかれ誰もが持っているだろう。

シンジはそのどちらになるのか選択を迫られ、中間にある第3の道を選ぶ。他者との関わりの中で適切な距離を測りながら互いに尊重しあうという、拍子抜けするほど真っ当なものだ。

 

4.結末

最終回では無事に選択を終えたシンジに、周囲の人たちからおめでとうと拍手が贈られる。これは思春期からの卒業式であり成人式だ。つまり「引きこもりが社会人への一歩を歩み始める」という、『NHKにようこそ』と同じハッピーエンドなのだ。

オチとして、『あの花』では最後に「概ね幸せに暮らしました。めでたしめでたし」となるが、エヴァでは「女性から『気持ち悪い。』などと言われまくるいばらの道です」というつらい現実が示される。後者の方が誠実だと思うが、どうか。

 

最後に1点を書き添えて本稿を閉じる。

渚カヲルは「オタクに理解があり考えを通わせられるが、同時に社会の中でも上手くやっている友人」という人物像、当時の庵野監督に対する岡田斗司夫である。

エヴァンゲリオンの横軸 – リベラル左翼の表現

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本稿ではテレビ版と旧劇場版について記す。

1.現実と空想の2項対立

庵野監督は根っからのリベラル左翼であり、フェミニストである。それはエヴァ以前の作品を見れば瞭然だ。『トップをねらえ!』に『ふしぎの海のナディア』と、自由で強く、自立した女性像が描かれている。というより、それしか描いていないと言っても過言ではない。当然、エヴァの思想性もそこにある。

それがストレートに表れているのが惣流アスカだ。ヨーロッパ的リベラリズムを身に着けた彼女は、周りの大人や男子たちに負けずに自らの考えをまくしたてる。彼女は庵野監督の理想とする強い女性の象徴であり、同時に現実の女性の象徴である。

その反対に位置するのが綾波レイである。彼女を特徴づけるのは弱さと従属。それは前項で述べた「萌え」要素の本質でもある。つまり綾波萌えアニメやヒロイン全体の象徴と言える。無数のスペアのある身体など、1クールごとに入れ替わる「俺の嫁」の姿そのものだ。

エヴァンゲリオンとは、現実の女性=惣流アスカ」と「空想の萌えヒロイン=綾波レイ」の2項対立なのだ。シンジ=男性オタクは、現実と空想の選択を迫られる。

 

2.シンジと2人の関わり方

シンジは力の弱く内気な少年として描かれるが、綾波に対しては優位に立つ場面がたびたび見られる。例えば初登場では、シンジは半ば流されるままに言った「エヴァに乗るよ」、その一言だけで綾波の命を救っている。また「あなたは死なないわ、私が守るもの」というセリフは、使徒の攻撃を受け止めるという役割を考えると、献身という言葉が妥当だ。その後もゲンドウの言いなりになるなど、男権への従順さが強調される。このように、綾波には前項で述べた「萌え」に必須の要素が意識的に集められている。

一方、アスカはシンジを露骨に見下してないがしろに扱い、加持に熱を上げている。放送当時のオタク差別や最近よく耳にする女性の上昇婚志向を考えるに、アスカの言動は現実の女性と照らし合わせて妥当なのではないか。

 

3.サードインパクトでの選択

終盤のサードインパクトで選択されるのは、アスカか綾波か ― 現実か空想か、ではない。サードインパクトの命じるところは「萌えを捨てよ、街へ出よ」なので(この辺りの意味については次項で書こうと思う)、「綾波を捨てる」ことはすでに決まっている。現実に即して書くと「大人として社会に出るために、萌えやアニメの趣味を捨てる」ということだ。

今では大人がアニメを趣味にすることは比較的簡単に受け入れられている。しかしそれでも、年配の方やオタクと縁遠い人からはいまだに差別は根強い。宮崎事件の影響が強い放送当時はなおさらだったろう。「街へ出る」ために「萌えを捨てる」ことは必須だった。

 

本項で記す選択は「アスカ(=現実の女性)とどう関わるか」である。

サードインパクトに対して、シンジはネルフ・ゼーレ両方の人類補完計画を拒み、他者と関わりあいながら生きる道を選んだ。だから、アスカに対しても碇シンジとしてかかわっていかなければならない。

旧劇場版の最後でシンジはアスカの首を絞めるという行動をとり、アスカは「気持ち悪い」の言葉で応じた。このシンジの行動はちょうど、コミュ障のオタクがカースト上位の女子に向かって精いっぱい話しかけるのと一緒だ。それは簡単に「キモい。」の一言で片づけられるだろう。

だからといって、1人前の社会人になるためには、居心地の良い萌えアニメの世界に逃げてはダメだ。何度「キモい」と言われようとも現実の女性と向き合い、コミュ障を克服しなければならない。

 

エヴァは、そして庵野監督は、そうせよと命じているのだ。エヴァファンを名乗るためには、アニメを捨てなければならないし、女性は強くあらねばならず、男性は自らが強くあるだけでなく強い女性を応援しなければならない。残念ながら、昨今のオタクからその気概は感じられない。

「萌え」の構造についての備忘録

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好き好んで読む方もいないでしょうが、前々から考えていることをつらつら綴ります。

 

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